新作バス停から降りてすぐ、西側の丘陵地斜面の上に「新作八幡宮」という看板が目に入る。
崖の上には新作八幡神社(通称:新作八幡宮)が鎮座しているのだが、その斜面が実は横穴墓群になっている。
名称は間際根横穴墓群という。
この横穴墓群は、東に向かって張りでた丘陵先端部分に位置する。
名前の通り、尾根の際だ。
神奈川考古学会 川崎市民ミュージアム・編『スライドによる入門考古学講座 ―横穴墓とは何か―』「川崎市間際根横穴墓群」によれば、急傾斜地崩壊対策工事中に1号墓の玄室側壁に穴が開いたことが発見の契機となった。
草が茂っており横穴墓の位置が判別できないが、ネットで草が刈られた時の写真を見ると、それらしい開口部が2、3つほど確認できた。
この斜面では8基、うち7基が発掘調査されている。
ちなみに写真は東側斜面だが、どうも南側、介護老人保健施設ゆいという施設の裏斜面にも、2基ほど横穴墓があるようだ。
間際根横穴墓群が造られた時代
上述の資料によれば、飛鳥時代、7世紀前半〜第3四半期(650年〜675年頃)と見られる。
追葬があったとしても、おそらく7世紀末までには使用を停止したと推定されている。
主な出土物
いずれも一旦開口、あるいは盗掘されているが、3号墓以外からは金銅製の耳環、直刀、玉類、須恵器などが見つかっている。
主な特徴
4号墓と5号墓がきわめて大きい床面積を誇り、盟主的な存在であったと考えられる。(4号墓が7畳、5号墓が6畳)
このうち5号墓からは、葬制の一端を示す資料が残されていた。
床面の敷石を組み直し、主軸方向に4体分を安置できるように石で仕切りを設け、そして不要になった石は横穴墓の閉塞石に転用したようだ。
つまり、複数人を埋葬するために玄室内をリフォームしたということ。
実際、5号墓からは金銅製の耳環が7個と直刀4本が出土しており、人数分の副葬品が供えられていたということになる。(耳環は2個で1セットと考えると、1個は紛失か)
また、棺座前端部の天井の左右にフック状の金具が打ち込まれ、そこに帳幕のような布が懸けられていた痕跡が見つかっている。
宮城県の追戸A地区横穴墓、群馬県高崎市の観音塚古墳などに類例があるが、県内では例がないそうだ。
もともとは古代中国、朝鮮半島から伝わった風習であるとされる。
間際根横穴墓群
参考資料
2024年6月19日閲覧