丁未の乱と橘花屯倉(橘樹郡)の支配層:物部・刑部直・飛鳥部吉志 ―『橘花屯倉と氏族』を読んで―

先日の記事で、高津市民館で開催された「橘花屯倉ミニシンポジウム-橘樹官衙遺跡群成立の前段階-」の講演のうち、専修大学 田中禎昭氏による『橘花屯倉と氏族』に非常に興味を唆られたことを書いた。

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大和から遠く離れた武蔵国であっても、中央の動きと決して無関係ではない。
それどころか密接に関係していることに、歴史好きな地元民としては胸が熱くなる話だった。

ということで、同講演の資料、及び論文『橘花ミヤケにおける氏族の動向 – -物部・刑部・飛鳥部吉志』を元に、自分なりに咀嚼してこの説を紹介したいと思う。

目次

橘花屯倉たちばなのみやけの初出

『日本書紀』によれば、安閑あんかん天皇元年(534年)閏十二月、笠原直使主かさはらのあたいおぬしが朝廷の助力を得て、長年争っていた同族の小杵おきを退け、武蔵国造むさしのくにのみやつこの地位についた。
そこで使主は朝廷に、横渟よこぬ・橘花・多氷おおい倉樔くらすの地を屯倉として献上したという。

これが橘花屯倉の初出だ。
いわゆる「武蔵国造の乱」と呼ばれる事件の顛末において、橘花の地は史に初めて登場する。
この時献上された4つの地のうち、多氷は多末たま=多磨郡、倉樔は倉樹くらき=久良郡の誤記とされる。

律令制下においては、橘花屯倉は武蔵国橘樹郡たちばなのこおりとして編成された。
『和名類聚抄』によれば、橘樹郡には、橘樹県守あがたもり・高田・御宅みやけ(以上が高山寺本・東急本)・駅家うまや(東急本)・余戸(名古屋市博本)の6郷が存在した。
当初は橘樹・県守・高田・御宅の4つの郷が置かれ、後に駅家、余戸が加えられたとされる。
地名から、かつての屯倉は御宅郷にあったと考えられている。

その橘樹郡地域(以降、ここではタチバナ地域と表記)の遺称地とされるのが、今日の川崎市域だ。
各郷の推定地については諸説あるが、この記事の後ろのほうで、田中氏の説に基づく図を載せる。

史料から見た、橘樹郡の人物

田中氏は、以下の4点の史料から、人物名を挙げている。

史料1:『万葉集』巻二十 4419・4420番歌

上丁・物部真根もののべのまね

天平勝宝七歳乙未二月、相替あいかわりて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌

4419
家ろには 葦火焚けども 住み好けを 筑紫に到りて 恋しけもはも
右の一首は、橘樹郡の上丁物部真根のなり。

4420
草枕 旅の丸根の 紐絶えば 我が手と付けろ これの針持し
右の一首は、妻椋椅部弟女のなり。

史料2:武蔵国調庸合成布(白布)墨書銘

橘樹郷刑部直國當
郡司領・外従七位下刑部直名虫おさかべのあたいなむし

武蔵国橘樹郡橘樹郷刑部直國當調庸布壹端 主當

国司史生正八位下秦伊美吉男□〔立カ〕
郡司領外従七位下刑部直名虫

天平勝宝八歳十一月

史料3:『続日本紀』神護景雲二年(768) 六月癸巳みずのとみ(二十一日)条

飛鳥部吉志五百国あすかべのきしのいおくに

武蔵国白雉を献る。勅したまはく、「(略)武蔵国橘樹郡の人飛鳥部吉志五百国、同じき国久良郡くらきのこおりに於いて白雉を獲て献る。(略)武蔵国の天平神護二年より已徃いおう正税しょうぜいの未納は皆赦除しゃじょすべし。また、久良郡の今年の田祖三分の一を免せ。また、国司と久良郡司こおりのつかさとに、各位一級を叙せよ。其の雉を献る人五百国には、従八位下を授けて、あしぎぬ十疋、綿二十屯、布四十端、正税一千束を賜ふべし」とのたまふ。

史料4:『日本三代実録』貞観十四年(872) 十一月二十三日(己丑つちのとうし)条

巨勢朝臣屎子こせのあそんくそこ

節婦武蔵国橘樹郡人巨勢朝臣屎子に位二階を叙す。戸内の租を免し、門閭もんりょに表す。

このうち、巨勢朝臣屎子は、橘樹郡内の首長一族の妻であったと考えられる。
しかし、当時は夫婦別姓で、婚姻は郡を越え、同階層以上で結ばれることも多い。
8世紀以前、橘樹郡に相当する地域に巨勢朝臣氏が居住していた可能性は低いため、彼女は橘樹郡外から嫁いできたと見られる。

よって、上丁・物部真根郡司領・外従七位下・刑部直名虫(従八位下)飛鳥部吉志五百国
この三人の人物像を紐解き、タチバナ地域を治めた氏族の性格を明らかにしよう、というのが田中氏の説の主旨だ。
上記史料は天平勝宝七年(755)〜神護景雲二年(768)という短い期間に絞られており、奈良時代における橘樹郡の支配層ということになるのだが、その過程として、タチバナ地域を治めた氏族の背景に、丁未の乱をはじめ中央の動向が密接に関係していることが垣間見える

“上丁・物部真根”から見る橘樹郡の物部氏

いわずとしれた(?)、饒速日命を遠祖とする古代軍事氏族の雄・物部氏。
古墳時代後期にかけては、蘇我氏と対立し、丁未の乱で本宗家は滅ぼされる。
だが物部真根は、そういった中央のむらじ姓の物部ではなく、彼らに奉仕した下位の物部と見られる。

真根の地位を探るうえで手がかりとなるのが、「上丁」という呼称だ。

上丁=農民兵士か

防人歌の作者に見られる地位は、防人軍の編成を示す地位呼称だ。
つまり、上丁も防人軍における地位を示しているということ。
だが直木孝次郎氏の研究によれば、上丁は「これから防人として任地に赴く一般成人男性」の意に過ぎず、単に「防人」という表記されたもの、又は地位の付記がないものについては、「一般の防人」つまり農民兵士と論じていて、これが通説となっている。

となると、物部真根はただの農民兵士ということになるのだ。
なんだがっかり(失礼)……と思いきや、田中氏はその通説に疑問を投げかけ、「上位の壮丁(労役・軍役に従事する成人男性)」という可能性を指摘している。

上丁=上位の壮丁という可能性

田中氏は『万葉集』以外の上丁の用例として、平城京出土木簡を例に、その記載の特徴として「上丁+人名」と、個人名をわざわざ単独で示していることを挙げた。
一般農民から徴発した仕丁じちょうであれば、集団で表記することが多く、記載方法が異なるのだそうだ。
また、仕丁と上丁では行政用語として明確に区別され、異なる概念として扱われているという。

物部真根は首長クラスの人物か

そこで改めて武蔵国防人歌群に目を向けると、物部真根と同じように、他の人名も「◯◯郡上丁」という表記がされている。
これについて田中氏は、「郡上丁」という固有の地位があったのではないかと論じている。
つまり、防人軍の編制において、郡ごとに任用された、「当該郡出身の防人の統率者」という地位だ。

とすれば、橘樹郡上丁・物部真根はただの農民兵士ではなく、村落を支配した首長クラスの人物と考えられ、橘樹郡の物部氏は、橘樹郡内に勢力基盤を持っていた有力氏族ということになる。

橘樹郡の物部氏の本貫地は現・高津区坂戸周辺か

田中氏は、橘樹郡の物部氏の本拠地について、森田悌氏による武蔵の坂戸物部に関する研究(『金沢大学教育学部紀要 人文科学・社会科学編』「吉士の武蔵入部」)を参考に、東国における「坂戸」という地名と物部氏の分布の重なりを踏まえて、現在の高津区坂戸周辺と推定。

橘樹郡の坂戸は、正平七年(1352)二月二十一日付足利尊氏充行下文(『神奈川県史』資料編3所収)に「坂戸郷」と見える古地名だ。

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