先日の記事で、高津市民館で開催された「橘花屯倉ミニシンポジウム-橘樹官衙遺跡群成立の前段階-」の講演のうち、専修大学 田中禎昭氏による『橘花屯倉と氏族』に非常に興味を唆られたことを書いた。

大和から遠く離れた武蔵国であっても、中央の動きと決して無関係ではない。
それどころか密接に関係していることに、歴史好きな地元民としては胸が熱くなる話だった。

ということで、同講演の資料、及び論文『橘花ミヤケにおける氏族の動向 – -物部・刑部・飛鳥部吉志』を元に、自分なりに咀嚼してこの説を紹介したいと思う。

橘花屯倉たちばなのみやけの初出

『日本書紀』によれば、安閑あんかん天皇元年(534年)閏十二月、笠原直使主かさはらのあたいおぬしが朝廷の助力を得て、長年争っていた同族の小杵おきを退け、武蔵国造むさしのくにのみやつこの地位についた。
そこで使主は朝廷に、横渟よこぬ・橘花・多氷おおい倉樔くらすの地を屯倉として献上したという。

これが橘花屯倉の初出だ。
いわゆる「武蔵国造の乱」と呼ばれる事件の顛末において、橘花の地は史に初めて登場する。
この時献上された4つの地のうち、多氷は多末たま=多磨郡、倉樔は倉樹くらき=久良郡の誤記とされる。

律令制下においては、橘花屯倉は武蔵国橘樹郡たちばなのこおりとして編成された。
『和名類聚抄』によれば、橘樹郡には、橘樹県守あがたもり・高田・御宅みやけ(以上が高山寺本・東急本)・駅家うまや(東急本)・余戸(名古屋市博本)の6郷が存在した。
当初は橘樹・県守・高田・御宅の4つの郷が置かれ、後に駅家、余戸が加えられたとされる。
地名から、かつての屯倉は御宅郷にあったと考えられている。

その橘樹郡地域(以降、ここではタチバナ地域と表記)の遺称地とされるのが、今日の川崎市域だ。
各郷の推定地については諸説あるが、この記事の後ろのほうで、田中氏の説に基づく図を載せる。

史料から見た、橘樹郡の人物

田中氏は、以下の4点の史料から、人物名を挙げている。

史料1:『万葉集』巻二十 4419・4420番歌

上丁・物部真根もののべのまね

天平勝宝七歳乙未二月、相替あいかわりて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌

4419
家ろには 葦火焚けども 住み好けを 筑紫に到りて 恋しけもはも
右の一首は、橘樹郡の上丁物部真根のなり。

4420
草枕 旅の丸根の 紐絶えば 我が手と付けろ これの針持し
右の一首は、妻椋椅部弟女のなり。

史料2:武蔵国調庸合成布(白布)墨書銘

橘樹郷刑部直國當
郡司領・外従七位下刑部直名虫おさかべのあたいなむし

武蔵国橘樹郡橘樹郷刑部直國當調庸布壹端 主當

国司史生正八位下秦伊美吉男□〔立カ〕
郡司領外従七位下刑部直名虫

天平勝宝八歳十一月

史料3:『続日本紀』神護景雲二年(768) 六月癸巳みずのとみ(二十一日)条

飛鳥部吉志五百国あすかべのきしのいおくに

武蔵国白雉を献る。勅したまはく、「(略)武蔵国橘樹郡の人飛鳥部吉志五百国、同じき国久良郡くらきのこおりに於いて白雉を獲て献る。(略)武蔵国の天平神護二年より已徃いおう正税しょうぜいの未納は皆赦除しゃじょすべし。また、久良郡の今年の田祖三分の一を免せ。また、国司と久良郡司こおりのつかさとに、各位一級を叙せよ。其の雉を献る人五百国には、従八位下を授けて、あしぎぬ十疋、綿二十屯、布四十端、正税一千束を賜ふべし」とのたまふ。

史料4:『日本三代実録』貞観十四年(872) 十一月二十三日(己丑つちのとうし)条

巨勢朝臣屎子こせのあそんくそこ

節婦武蔵国橘樹郡人巨勢朝臣屎子に位二階を叙す。戸内の租を免し、門閭もんりょに表す。

このうち、巨勢朝臣屎子は、橘樹郡内の首長一族の妻であったと考えられる。
しかし、当時は夫婦別姓で、婚姻は郡を越え、同階層以上で結ばれることも多い。
8世紀以前、橘樹郡に相当する地域に巨勢朝臣氏が居住していた可能性は低いため、彼女は橘樹郡外から嫁いできたと見られる。

よって、上丁・物部真根郡司領・外従七位下・刑部直名虫(従八位下)飛鳥部吉志五百国
この三人の人物像を紐解き、タチバナ地域を治めた氏族の性格を明らかにしよう、というのが田中氏の説の主旨だ。
上記史料は天平勝宝七年(755)〜神護景雲二年(768)という短い期間に絞られており、奈良時代における橘樹郡の支配層ということになるのだが、その過程として、タチバナ地域を治めた氏族の背景に、丁未の乱をはじめ中央の動向が密接に関係していることが垣間見える

“上丁・物部真根”から見る橘樹郡の物部氏

いわずとしれた(?)、饒速日命を遠祖とする古代軍事氏族の雄・物部氏。
古墳時代後期にかけては、蘇我氏と対立し、丁未の乱で本宗家は滅ぼされる。
だが物部真根は、そういった中央のむらじ姓の物部ではなく、彼らに奉仕した下位の物部と見られる。

真根の地位を探るうえで手がかりとなるのが、「上丁」という呼称だ。

上丁=農民兵士か

防人歌の作者に見られる地位は、防人軍の編成を示す地位呼称だ。
つまり、上丁も防人軍における地位を示しているということ。
だが直木孝次郎氏の研究によれば、上丁は「これから防人として任地に赴く一般成人男性」の意に過ぎず、単に「防人」という表記されたもの、又は地位の付記がないものについては、「一般の防人」つまり農民兵士と論じていて、これが通説となっている。

となると、物部真根はただの農民兵士ということになるのだ。
なんだがっかり(失礼)……と思いきや、田中氏はその通説に疑問を投げかけ、「上位の壮丁(労役・軍役に従事する成人男性)」という可能性を指摘している。

上丁=上位の壮丁という可能性

田中氏は『万葉集』以外の上丁の用例として、平城京出土木簡を例に、その記載の特徴として「上丁+人名」と、個人名をわざわざ単独で示していることを挙げた。
一般農民から徴発した仕丁じちょうであれば、集団で表記することが多く、記載方法が異なるのだそうだ。
また、仕丁と上丁では行政用語として明確に区別され、異なる概念として扱われているという。

物部真根は首長クラスの人物か

そこで改めて武蔵国防人歌群に目を向けると、物部真根と同じように、他の人名も「◯◯郡上丁」という表記がされている。
これについて田中氏は、「郡上丁」という固有の地位があったのではないかと論じている。
つまり、防人軍の編制において、郡ごとに任用された、「当該郡出身の防人の統率者」という地位だ。

とすれば、橘樹郡上丁・物部真根はただの農民兵士ではなく、村落を支配した首長クラスの人物と考えられ、橘樹郡の物部氏は、橘樹郡内に勢力基盤を持っていた有力氏族ということになる。

橘樹郡の物部氏の本貫地は現・高津区坂戸周辺か

田中氏は、橘樹郡の物部氏の本拠地について、森田悌氏による武蔵の坂戸物部に関する研究(『金沢大学教育学部紀要 人文科学・社会科学編』「吉士の武蔵入部」)を参考に、東国における「坂戸」という地名と物部氏の分布の重なりを踏まえて、現在の高津区坂戸周辺と推定。

橘樹郡の坂戸は、正平七年(1352)二月二十一日付足利尊氏充行下文(『神奈川県史』資料編3所収)に「坂戸郷」と見える古地名だ。

坂戸周辺=橘樹郡県守郷?

仁藤敦史氏の説によれば、屯倉は建前では大王の直轄地・王民的な在り方が強調されているが、実態としては現地の群臣層が経営した、中央への徭役労働=ちょうをはじめとした貢納奉仕の拠点であり、丁の徴発を介したネットワークが存在していた
またその在り方も、現地の群臣層の支配力に応じて多元的であるという。

一方で、原島礼二氏は、全国のあがたと物部の分布の重なりを明らかにし、河内の物部連氏が諸国の県の管理を掌っていたと論じている。

両氏の議論を参照し、田中氏は、橘花屯倉は、物部連氏が管理した河内の県に奉仕する丁を提供するために設置された県のひとつとして、6世紀前半頃に成立していた可能性があると指摘。

つまり、中央の物部連氏に丁を提供する現地の首長がタチバナ地域の物部氏ではないか。

個人的には、武蔵国造後裔で聖徳太子の舎人・物部直兄麻呂もののべのあたいえまろに見える物部直氏か、それに親しい氏族ではないか、と想像している。

タチバナ地域の物部氏は、現地の県を管守する、まさに「県守あがたもり」というべき地位にあったと考えられることから、橘樹郡県守郷は、県守たるタチバナ地域の物部氏と関連を見出すことができ、すなわち県守郷=現・高津区坂戸周辺と比定できる。

末長・久本古墳群はタチバナ地域の物部氏の奥津城か

坂戸周辺に近在し、6世紀前半〜後半に営まれた末長・久本古墳群を、田中氏はタチバナ地域の物部氏の奥津城と位置づけしている。
ただこの末長・久本古墳群という呼称、僕が少し調べた限りでは、田中氏の資料以外にそういった古墳群の名称を見つけることが出来なかった。
ここで、末長・久本古墳群とは何を指しているのかという調査がはじまった……。

川崎市公式サイト内の資料では、「久本山古墳」という古墳名を確認した。
資料内の地図でその位置を確認できたが、久本横穴墓群の位置を指していた。
しかし、古墳巡りをしている方のブログをいくつか参照すると、久本横穴墓群の斜面の上、つまり久本神社背後の丘陵頂部に久本山古墳という円墳があるらしい。

案内板が立っているわけでもなく、ただこんもりとした古墳と思わしき地形を確認できるだけで、整備はされていない。
また近隣の桃ノ園にも横穴墓群と古墳があるらしいが、それも右に同じ。
「久本古墳群」というのは、これらを包含して指しているようだ。

一方、末長古墳群はというと、やはりこちらも分かりやすい形で残されていないようだった。
より正確には「末長久保台古墳群」というらしい。
末長2丁目に江戸見桜という名所があり、これは源八幡太郎義家が見つけ詞に詠んだ山桜(の三代目)らしいが、この江戸見桜がある場所とその周辺に古墳があったようだ。

しかし、その多くが削平されて跡形もなくなっている。

おそらく唯一わかりやすい形で保存されているのは、末長1丁目にある口明塚くちあけづかだ。
ここには塚と碑が立っており、墳丘を僅かに残している。

刑部直名虫から見る刑部直氏

天平勝宝八歳当時、橘樹郡司領をつとめた名氏

一次史料に「郡司領」とあるのだから、刑部直名虫が天平勝宝八年(757)当時、橘樹郡を管掌した郡司であることは間違いない。
郡司は大領・少領・主政・主帳の四等官で構成され、長官と次官にあたる大領・少領の総称を「郡領」と呼ぶこともあり、郡司領は郡領と同義だろう。
刑部直名虫は、国造クラスの首長が有する直姓を持つことから、郡司領に任命されるに相応しい名氏だったことが伺える。

ただし郡司は、神郡という特殊な郡を除いて三等親内の同一氏族からの連任が禁じられており、一般的な郡は、複数の氏族が結集して機能していたと考えられる。(大町健『日本古代の国家と在地首長制』)

なので、刑部直氏が橘樹郡全域を支配していたというわけではなく、それに競合する氏族が先述の物部氏であったり、飛鳥部吉志氏だったとみられる。

橘樹郷が刑部直氏の本貫地

同史料には、橘樹郷を本貫とする刑部直國當という人物名も見える。
名虫と同姓であることから同氏とみられ、橘樹郷が刑部直氏の本貫地であったと考えられる。

橘樹郡官衙は刑部直氏のホームグラウンドにあった

望月一樹氏は、名虫が直姓を持つことから、武蔵国内の刑部を統括する地位にあったとした上で、郡名と郷名が一致する「郡名郷」に郡衙があったとみる平川南氏の見解を踏まえ、橘樹郡衙は刑部直氏の本貫である橘樹郷に設立されたと論じている。(望月一樹『律令制下における橘樹郡の様相』 日本大学史学会・編『史叢』第95号)

刑部直は、物部氏領導のもとで設定された敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子の名代か

刑部直氏は、そのウヂ名から、7世紀中頃以前に、中央の刑部造氏を介してオサカベの名を持つ皇族に奉仕した氏族と考えられる。

それに当たる人物として田中氏は、允恭いんぎょう天皇后・忍坂大中媛おしさかのおおなかつひめとする向きもあるが、6世紀半ば〜後半、敏達びだつ天皇皇子・押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみことみるのが穏当だという。
忍坂大中媛が生きたとみられる5世紀の段階では、部民制の成立は確証を得られないためで、僕個人としても、刑部造氏が押坂彦人大兄皇子の名代というのは同意見だ。

成清弘和氏は、全国的な物部と刑部の分布の重複を踏まえ、中央の刑部造氏は物部氏配下の氏族であり、6世紀に物部氏の領導のもと、押坂彦人大兄皇子の名代が全国に設置されたとしている。(成清弘和『オサカベ再考』 続日本紀研究会『続日本紀研究』第228号)

田中氏も、中央の刑部氏をどう見るかという問題はありつつ、6世紀中頃、大連おおむらじの物部連氏の主導下で押坂彦人大兄皇子の宮―中央の刑部造氏―タチバナ地域の刑部直氏という重層的な奉仕関係が形成されていたとみている。

刑部直氏の奥津城が蟹ヶ谷古墳群か

先述の久本古墳群から東南に4kmほど、多摩川支流・矢上川の左岸、舌状台地の上に蟹ヶ谷古墳群という古墳群がある。

久本・末長の両古墳群とは、橘樹官衙遺跡群をはさんで反転した位置にあり、6世紀後半〜7世紀後半あるいは8世紀までに営まれたとみられる。

発掘調査をした土生田純之氏は、蟹ヶ谷古墳群は6世紀後半以後、「末長・久本古墳群の形成を終えた後、あるいはその終焉段階」に形成が始まり、「郡衙創設と密接な関係を持ちやがて郡衙に勤務した在地豪族の奥津城と考えてよい」と見解を示している。
また、末長・久本古墳群と蟹ヶ谷古墳群の関係について、横穴墓を伴う点、群構成の類似点を指摘している。(土生田純之『川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査』 専修大学人文科学研究所『人文科学年報』第46号、蟹ヶ谷古墳群発掘調査団・川崎市市民ミュージアム編『蟹ヶ谷古墳群』)

田中氏は、土生田氏の見解を踏まえ、久本・末長古墳群をタチバナ地域の物部氏の奥津城、同じく物部とゆかりのある刑部直氏の奥津城を蟹ヶ谷古墳群と位置づけている。

二つの古墳群が示すもの

6世紀後半には物部の一部が割き取られて刑部が設定された可能性があり、その後『日本書紀』大化二年(646)三月条に見える「皇祖・大兄御名入部おおえのみなのいりべ」として7世紀後半に到るまで継承されてゆく。

現爲明神御八嶋国天皇、問於臣曰。
其群臣連及伴造国造所有・昔在天皇日所置子代入部・皇子等私有御名入部・皇祖大兄御名入部(謂彦人大兄也)及其屯倉、猶如古代而置以不

現爲明神御八嶋国天皇あきつみかみとやしまのくにのしらすすめらみことは臣に問いて曰く、
「その群臣、連、及び伴造、国造が所有する、昔の天皇が在りし日に置いた子代入部こしろのいりべ、皇子らが私有する御名入部みなのいりべ皇祖・大兄の御名入部(謂わく、彦人大兄のことである)、及びその屯倉を、いしにえのように置こうと思うが、どうであろうか

田中氏は、二つの古墳群の類似性・連続性は、末長・久本古墳群を造ったタチバナ地域の物部氏の一支族が刑部直氏として分立し、その新たな奥津城として蟹ヶ谷古墳群を造ったと考えれば、二つの古墳群は両氏の連関性を示すものではないかという。

飛鳥部吉志五百国の記事から見る飛鳥部吉志氏

五百国は、吉志姓を名乗っていることから、吉士とも表記される渡来系氏族であることわかる。

また氏族はウジ名・カバネを負うことで大王および中央氏族と 貢納・奉仕の関係に入るので、そうなると、飛鳥部吉志氏も中央の伴造氏族に奉仕した氏族と見られる。
そこで想定されるのは、飛鳥戸あすかべ造氏であるという。

飛鳥部吉志氏の奉仕先とみられる飛鳥戸造氏とは

同氏は『新撰姓氏録』によれば右京、河内国安宿あすかべ郡、同国高安郡を本貫とし、いずれも百済王の子孫を称し、いわゆる近つ飛鳥の地に本拠があった。

飛鳥戸の性格を検討した山尾幸久氏は、欽明・敏達の時代に渡来系の移住民を集住させ、田部を掌握する体制が見られるとするという岸俊男氏の指摘を踏まえ、飛鳥戸造氏は「アガタを小作する田部として成人男性=丁をヤマト王権に提供すべく定められた集団」と位置づけた。
また田部の設置が6世紀半ば以後、南大和・河内・ 吉備ではじまり、それに蘇我氏が関わった点から、仮に飛鳥戸の前身集団が5世紀に渡来していたとしても、河内飛鳥を拠点にした飛鳥戸姓の氏族が成立するのは欽明期以後のことであると指摘している。

飛鳥部吉志氏が、河内飛鳥の飛鳥戸造氏に奉仕する氏族として置かれたのならば、当然、タチバナ地域の首長が飛鳥部吉志を称するようになるのも欽明期以後ということになるだろう。

飛鳥戸と蘇我氏

田部の設置に蘇我氏が関わったという点以外にも、飛鳥戸造氏と蘇我氏のつながりがある。
この飛鳥戸造氏が本拠とする近つ飛鳥には、用明・推古など、蘇我氏に関わりがある王族の陵墓を有する磯長谷王陵墓群がある。
また地域の主要河川である石川流域には蘇我系氏族・石川氏の本拠が置かれるなど、この地域は6世紀中葉以後、蘇我氏の勢力圏にあった。

つまり、飛鳥戸造氏は蘇我氏配下の氏族とみられ、ここでも蘇我氏―飛鳥戸造氏―タチバナ地域の飛鳥部吉志氏という、重層的な奉仕関係が形成されていたと考えられる。

飛鳥部吉志がタチバナ地域に置かれたのはいつか

では、飛鳥部吉志がタチバナ地域に置かれたのはいつか。
欽明以後とはいっても、物部連氏に奉仕する物部・刑部がタチバナ地域に設定された6世紀中頃以前に、ライバル関係にあった蘇我氏傘下の飛鳥戸造氏に奉仕する同氏が、同じタイミングで置かれたとは考えにくい。
したがって、田中氏の見解では、タチバナ地域における飛鳥部の設置は丁未の乱以後、6世紀後半〜7世紀初頭の時期に求めるのが妥当であるとする。

ただし、橘花屯倉の設置そのものは、河内の物部連氏の全盛期である6世紀前半〜中頃の時期に遡るのではないかという。

飛鳥部吉志氏の本貫地は御宅郷か

一度少し話が逸れるが、橘樹郡は橘花屯倉という単一のミヤケから再編された郡名であるのに、その郷名には、アガタ=県守郷とミヤケ=御宅郷がという二つのミヤケ遺称地が存在する。

この疑問の答えとして、田中氏は、タチバナ地域におけるミヤケ・アガタの支配において、二つの画期が存在した事実の反映と考察している。

県守郷は、6世紀前半〜中頃に物部氏が設置した県の管守者=県守に由来する郷名であることは先に述べたが、これが一つの画期とみる。
もう一つの画期が、御宅郷という郷名から考えられる事実。
つまり、御宅郷は、丁未の乱の後、蘇我氏主導の下で橘花屯倉に設置された渡来系集団・飛鳥部を統括する飛鳥部吉志氏が本貫とした地に付された郷名であったのではないか、というのだ。

ミヤケに二段階の画期があったことは、『日本書紀』の記述とも整合するという。
一つは、冒頭にもあげた通り、橘花屯倉も初見される安閑紀・宣化紀におけるミヤケ設置。
もう一つが推古天皇十五年条だ。

是歲冬、於倭国作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背国掘大溝於栗隈、且河內国作戸苅池・依網池、亦毎国置屯倉

この年の冬、おおやまと国において高市池たけちのいけ藤原ふじわら池・肩岡かたおか池・菅原すがわら池を作る。山背国において大溝おおうなで(水路)を栗隈くるくまに掘る。また、河内国に戸苅とかり池・依網よさみ池を作る。また、国毎に屯倉を置く

仁藤敦史氏によれば、この記事における「国毎に屯倉を置く」とは、大倭・山背・河内三国の屯倉のみならず、全国で屯倉が置かれたことを記したものであるという。
この点を踏まえるならば、推古期における屯倉の設置は、渡来系集団のもつ新たな灌漑技術を駆使した屯倉開発の新段階を示すものと考えられる。

したがって橘花屯倉においても、 この推古十五年条に記された政策に基づき、安閑期に置かれた物部氏が統括した古い屯倉=県の内部に、新たに蘇我氏主導の下で飛鳥部吉志氏が置かれたと考えることができるのではないだろうかと、というのが田中氏の説だ。

御宅郷は有馬川流域?

飛鳥部吉志が本拠とした地域については、渡来系の考古学的遺構・異物との関連で検討が進んでおり、有馬川流域が比定される
つまり、有馬川流域が橘樹郡御宅郷だったのではないか。

その証拠として、当流域には火葬墓群が集中してあり、また、橘樹官衙遺跡Ⅰ期の方形周溝状遺構は朝鮮半島系の壁立建物跡ともみられている。

火葬墓群と飛鳥部吉志氏の関連を指摘した村田文夫氏の研究(村田文夫『川崎・たちばなの古代史 ―寺院・郡衙・古墳から探る』(有隣堂)、『考古学による歴史的背景の追求』(六一書房))や、方形周溝状遺構と飛鳥部吉志氏の関係を論じた栗田一生氏の研究(栗田一生『橘樹評家の誕生』 井上尚明・田中広明編『古代東国の考古学6 飛鳥時代の東国』)が注目される。

まとめ:丁未の乱とタチバナ地域を治めた物部・刑部直・飛鳥部吉志

田中氏の説を僕なりにまとめる。

橘樹郡は一次史料にみえる刑部直氏だけが全域を支配していたのではなく、物部、飛鳥部吉志も現地の首長クラスの氏族として存在し、複数の氏族が競合しながら管掌していた。

また、刑部直氏は刑部造―押坂彦人大兄皇子、物部氏は物部連氏、飛鳥部吉志氏は飛鳥戸造―蘇我氏と、それぞれ重層的な奉仕関係を結んでいた。

時系列としては、まず安閑朝(6世紀前半〜中頃)において、物部連氏主導のもと、橘花屯倉=県とそれに奉仕とするタチバナ地域の物部氏が置かれた。
彼らはおそらく現・高津区坂戸周辺=県守郷を本貫とし、久本・末長古墳群を造っていった。

そして6世紀中頃、押坂彦人大兄皇子の存命中に、物部連氏主導のもとで、タチバナ地域の物部氏の一支族が、刑部直氏として分立。
彼らは橘樹郷を本貫とし、久本・末長古墳群の特徴を引き継ぐ形で蟹ヶ谷古墳群を造った。

587年、丁未の乱によって物部連氏が滅亡すると、タチバナ地域の勢力図も刑部直氏が上位に置き換わり、やがて橘樹郡家設立の主体となり、八世紀に郡領氏族として勢力を伸ばすようになる。
ただし物部氏も首長として存続し、後に『万葉集』に「上丁」としてその名を残す。

そして推古朝において、蘇我氏主導のもと、屯倉開発の新段階として当時最先端の灌漑技術を持つ渡来系氏族・飛鳥部吉志が橘樹屯倉内部に置かれた。
五百国の位から見るに、飛鳥部吉志氏は刑部直氏より下位に位置づけられていた。
彼らは有馬川流域を本貫としたとみられる。

田中氏による、それぞれの氏族の分布と郷の推定を地図にまとめてみた。
この地図は、文化財総覧WebGISの地図をベースに、田中氏の説に基づいて僕が加筆したものだ。

まずは地名と各河川、遺跡の分布。

そして各氏の分布と郷の推定

ちなみに田中氏は、馬絹古墳と飛鳥部吉志の関係については、講演資料では触れておらず、『橘花ミヤケにおける氏族の動向 -物部・刑部・飛鳥部吉志』では見解を保留にしている。

有間川流域からは離れており、たしかに微妙なところだ。
しかしそれを言うなら、橘樹官衙遺跡郡Ⅰ期の方形周溝跡も有馬からは離れているので、飛鳥部吉志と結びつけるのは難しいと思うが、そこは栗田氏の研究を確認しないとわからない。

一説に、馬絹古墳は上円下方墳ともいう。渡来系を思わせる形だ。
個人的には、橘樹官衙遺跡郡Ⅰ期の方形周溝跡を飛鳥部吉志と結びつけるのならば、はじめ彼らは刑部直氏管轄のもと、橘樹官衙遺跡周辺を拠点にしていたが、その後、数が増えて勢力を拡大したか、あるいは官衙を造るために土地を明け渡したかで有馬川流域へと拠点を移した、その始祖たる首長墓が馬絹古墳ではないか、という想像をしたくなる。

馬絹古墳の立ち位置はさておき、8世紀後半において、その氏族勢力再編の時を迎えた。
それが飛鳥部吉志五百国の白雉献上だったという。

おまけ:五百国の白雉献上と藤原雄田麻呂(百川)

飛鳥部吉志五百国の白雉献上が、なぜ橘樹郡における勢力図の書き換えの契機となったといえるのか。
五百国は橘樹郡の人であるのにも関わらず、昇叙の対象は五百国自身と武蔵国司、及び久良郡司で、肝心の橘樹郡領とみられる刑部直氏が昇叙の対象として見えないのだ。
こうした偏った叙位には、政治的背景があったのではないか。

田中氏のシンポジウム講演資料『橘花屯倉と氏族』では割愛されているが、同氏の『橘花ミヤケにおける氏族の動向 -物部・刑部・飛鳥部吉志』によれば、武蔵の物部系氏族が道鏡政権と深くつながっていたことが伺い知れるという。
この当時の中央政界では、弓削道鏡が法王の地位を得て権勢を誇っていた。

五百国の白雉献上の前年、神護景雲元年における武蔵国司は、守・巨勢朝臣公成、介・藤原朝臣雄田麻呂、員外介・弓削御浄朝臣広方だった。
武蔵国司のポストにも弓削氏がいたのだ。
そして年明けて二月十八日、雄田麻呂が守に任じられるとともに、空いた介の席に広方が繰り上げで就任した。
この時、雄田麻呂の位は正五位下だったが、同年十月八日の記事に、「正五位上藤原朝臣雄田麻呂」と見え、一年に満たない短期間に、雄田麻呂は1階昇叙していることになる。

その期間に当たる同年六月、五百国の白雉献上があった
国司と久良郡司とに、各位一級を叙せよ。”にある国司とは武蔵守・藤原雄田麻呂のことを指す
この雄田麻呂こそ、光仁天皇擁立を背後で画策し道鏡排斥を主導した藤原式家の雄・藤原朝臣百川その人だ。
対して広方は、道鏡の弟・弓削浄人の子で、道鏡の甥に当たる人物。
二人は互いに競合し合う関係にあったと推察される。

弓削氏は物部守屋の母方の氏族で、その本貫は河内国若江郡弓削郷(現・大阪府八尾市内)。
実は中央の刑部造氏の本拠地も、同じ河内国若江郡内の刑部郷にある。
同地域には現在も弓削と刑部の遺称地名が残されており、その地理関係をみると、弓削郷と刑部郷は近隣の隣り合った地域にあったとみられる。

大阪府八尾市弓削町

大阪府八尾市刑部

つまり弓削氏と中央の刑部造氏は、物部連氏と深いつながりを持つだけでなく、ともに河内国若江郡を本貫とする同郷出身の氏族なのだ。

その武蔵介・弓削御浄広方は、やはり橘樹郡領・刑部直氏と同様、祥瑞献上の恩恵にあやかった形跡はない
氏族間の関係と事件の顛末から見るに、橘樹郡司・刑部直氏が武蔵介・広方とつながりを深めていた可能性がある

田中氏によると、結果から見たこの事件の本質は、橘樹郡内の小首長だった飛鳥部吉志五百国が、隣接する久良郡の郡司と新任国守・藤原雄田麻呂と結託し、橘樹郡で最大の勢力だった名氏・刑部直氏を追い落とすために一計を案じたデモンストレーションだったと考えられる。

実は同時期に入間郡でも、現任郡司・物部直氏と郡内新興勢力・大伴部直氏の間に対立・抗争が起こっている。

翌・神護景雲三年(769)では、雄田麻呂は弓削氏の本貫である河内守を任され、道鏡政権下でも枢要な地位を占めており、この時点では明確な対立があったとはいえない。
しかし、道鏡と対立して配流された輔治野(和気)清麻呂に対し、雄田麻呂は封郷二十戸を割いて支援した事実も確認され、雄田麻呂と道鏡の関係は、表面化こそしていないものの、かなり微妙なものがあったと考えられるという

その後、道鏡は失脚。
それに伴い、かつての武蔵介・広方は宝亀元年(770)八月二十 二日、父とともに土佐国に配流となった。
その決定に、当時参議であった藤原百川(雄田麻呂)が関与したことは疑いない。

結果から見れば、橘樹郡をはじめ武蔵国の各郡で起こっていた動向は、道鏡失脚の前兆ともいえる水面下の対立であったのかもしれない。

参考資料

2024年6月23日閲覧